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私の出身地は元栗原郡一迫町真坂です。今回の震源地は春は新緑、秋は紅葉と素晴しい景色の栗駒山の山麓で、ニュースで映される場所は思い当たる辺りで、心から悲しくそして心配に思います。思い起こすと昭和35年のチリ地震津波は志津川に知り合いも居るので、津波の恐ろしさを大人たちの話しから想像して、それから30年以上もの後まで夢を見るほどでした。昭和37年の宮城県北部地震は運動会の日で、校庭が波のようにうねり、テントがつぶれ、佐藤幸一先生がマイクで校舎に近づかないように叫んだようですが、アリの子を散らすように生徒たちは右往左往したことや、地割れを見ながら子供なりの考えで怖がった事を思い出します。その後新潟地震や十勝沖地震などを怖がり、昭和53年の宮城県沖地震では、娘が1歳半でしたがおんぶしながらウロウロしてしまいました。地震のたびに家の中を走り回り、怖がってしまいます。日常は怖いものなど無いほど強いイメージあるのに、地震の度にウロウロして焦り怖がる様子は、周りの人達には滑稽に映るらしく、喜ばれてしまうのはしょうがないなぁと自分ながら情け無いと思います。地震が続く限り、走り廻り焦りまくる様子をチャームポイントと考えることにしようかなーとこのごろ思っています。
先週、シルバーネットという新聞で6月にシルバー事典という雑誌を出すので広告を載せてほしいということで担当の方が来られました。打ち合わせしながら「ところでシルバー世代は何歳からいいますか?」とお聞きしたら「やっぱりそれは60歳あたりからでしょう」といわれびっくりしました。まさか私がシルバー世代だとは今日の今日まで考えたことがありませんでした。シルバー世代といえば75歳ぐらいからだと思っていました。白髪は確かにありますが、染めているせいか、気がつきませんでした。以前薬局に百歳の女性が来られました。夏だったので絽の着物をきりっとお召しになって草履のはいた足をきちんとそろえて「自分が百歳になるまで年のことはあまり考えたことがなくて気がついたら百歳だった(笑)」とおっしゃってました。なーるほどそんなものかとその時思いましたが、なにはともあれ、夢中で生きるのはいいもんだなぁーというのが感想です。
このところ、中国の地震のニュースを聞いていると、いろんなことを思い起こします。
宮城県沖地震のときは南染師町のエンドーチェーンで買い物をしていました。家に帰ったら1歳の娘のうえに覆いかぶさるように母がふとんを頭からかぶってました。秋保の旅館がお風呂を開放してくれたので、娘を連れて行きました。東京から当時のお舅さんが缶詰や食べ物を車につんで仙台まで来てくれました。日本人はどんな時も大声を出したり、国に対して恨んだりして騒いだりすることなく、黙々と回復に向かって助けあうところが、いまさらながらいいなぁーと感心しました。ただ子供が一人しかいない私は、中国のお母さん方がお子さんを無くして泣き叫ぶj様子は毎回胸がつぶれそうで涙が止まりません。どらえもん募金に募金しましたが、いざとなれば、どんなに優しい言葉よりお金しかないなぁーと思いました。